たかのは占い

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宿とは

密教占星術の27宿とは?
~宿曜占星術との違い〜

宿曜占星術の由来

弘法大師・空海は唐へ行き、多くの経典の中から「宿曜経」という経典を持ち帰ったことが宿曜占星術の由来です。「宿曜経」は省略名で、正式名は『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』「もんじゅしりぼさつきゅうしょせんしょせつきっきょうじじつぜんあくすく(しゅく)ようきょう」といいます。

「宿曜経」は経典というより、東洋の占星術そのものでした。あくまでも私的な見解ですが、空海の師匠であった恵果阿闍梨の師匠であった不空三蔵が感応して弟子二人に口述筆記させたものだと認識しています。初刊の下巻は口述そのままで分かりにくかったため、改めて改訂版として上巻が出された異質の書物です。
これを空海が日本に持ち帰ったのがきっかけで、日本の暦に正しい曜日が記入されたといいます。

空海が請来した意味不明な「宿曜経」は当時、政治の中で利用されていました。密教行法をやる吉日を決めるための占いだったので、個人の命理を占うことは必要なかったのです。あくまでも国の統治のために祈りを捧げる日を決めるだけの占いでした。これを古式の宿曜占法と名付けました。

天災がいつ起こるのかを予測するには正確な暦の作成が不可欠でした。正確な暦を作成できるようになったのは、平安時代中期の僧・天台宗のの日延(にちえん)がシナから符天暦を輸入してからです。つまり、日延の符天暦輸入がきっかけで宿曜道が始まりました。これを符天暦宿曜道と名付けましょう。

室町時代には隆盛を極めたこの一派は、天文を測定する計算式があまりにも専門学的過ぎて衰退して滅びました。やがて密教僧は祈祷のみを取り扱うようになり、星の観測は民間へと流れて行きました。

さて、専門的な宿曜道はその後、独特な発展を遂げて行きました。それは陰陽道的要素を色濃くした陰陽師たちにより受け継がれて行きました。かの有名な天文学を受け継いだ安倍晴明(あべのせいめい)や、その師匠である賀茂保憲(かもやすのり)もこの中にいます。これを陰陽師的宿曜道と名付けましょう。しかしやがてこの一派も衰退して行きました。

私の鑑定に用いる占法は、このどちらの宿曜道でもありません。完全なるオリジナル占法です。空海の請来した「宿曜経」を用いる密教占星術と、日延がきっかけの符天暦的宿曜道、陰陽道のアレンジが加わった陰陽師的宿曜道でもないのです。

「たかのは占い」は一般的な宿曜占星術や
密教占星術とは異なる三点

一つ目の違いは、宿曜占星術と同じように月を二十七宿と見る他に、日を十二宮に当て、木星を十二支に当て日・月・木星の三光の動きを実星(実際にある星)の動きとして用い、運気の流れを年月日単位(さらに細かく時間も分かる)で追うことが出来る点です。これにより先々の計画を立てることが可能ですし、過去に何が起こったのかを検証することも可能です。

二つ目の違いは、問題ごとの解決をするために生まれて来た課題(テーマ)から探ることが可能だという点です。生まれて来た課題を知ることは、まさに密教的解決方法だといえるでしょう。

三つ目の違いとして、最も重要視している解釈の方法が空海のオリジナル密教的だという点です。空海の密教の教えを分かりやすく譬えれば、女王蜂しか作れない「ローヤルゼリー」のような濃密な貴重な教えです。空海の「生きた密教の教え」とは、生まれて来た課題を知ることこそ、本来の幸福感に直結することになると考えています。

ですから空海の密教的要素が含まれた「たかのは占い」は、民間の宿曜占星術で鑑る性格とは異なり、かなり毒舌です。
なぜこんなにも毒舌なのか・・・これには理由があります。人の脳内は悪いことはいつまでも覚えているのですが、良い事は直ぐに忘れるように出来ているのです。同じ過ちを二度と行わないように、という人の防衛本能が働く為なのです。
言われたくないようなところに新しい自分が隠れているのです。苦手な部分が本当はとても魅力的で、唯一無二のあなたなのだと気が付いてもらえると幸いです。

どうぞ弘法大師・空海の密教と合流した「たかのは占い」が、あなたの悩める心に響きますように・・・

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